こちらの記事からの続きです。
小学生の私、学校から帰ってくると、とりあえず一冊読み終えて、それから宿題。
終わったら二冊目。
新しい世界に入る。
とにかく、本を読んでいると幸せだった。
宿題と、楽器も習っていたのでその練習以外は、ずっと読んでいたような記憶だ。
友達の家に遊びに行っても、その子の家の本棚の前から動かなくなるので、友達付き合いはこの頃から上手ではなかったと思う。
寝るまでに三冊読み終えられなかった時、自分に負けたようで悔しかった。
明日、新しい本が三冊借りられないじゃん!
本を読むスピードは速かったのだと思う。
数年のうちに、図書室で読みたい本はあらかた読み尽くし、あまり触手の動かない、大人向けの本を借りることもあった。
教育論、とか、子供にいかに指導するか、みたいな、多分学校の先生向けの本だったと思う。
つまらなかったけど、その棚も端から順番に全部読んだ記憶もある。そのうち、図書室には行かなくなった。
話は前後するけれど、小3の頃には、普通の文庫本も読むようになり、両親の所蔵していた星新一を皮切りに読み始めた。
親の本棚で面白そうなのは読んでしまったので、習いごとの先輩から、文庫本を借りて読むようになった。
活字ばっかりではなくて、マンガも好きだったので、もう忙しくてしょうがなかった。
ただ、マンガは、一冊5分で読んでしまう。
私にとっては、マンガは大変にコスパの悪い読み物だった。おもしろくても、あんなに高いモノ、自分で買うとか、ありえない。
誰かに借りられるとしても、活字の方が嬉しかった。長いから。
小中高の間、国語の読解で困った記憶はあまりない。
高校で、「現代文の点が取れない」とぼやく友人の話を聞いても、一体どこでどう困るのかよくわからない、というのが正直なところだった。
そもそも、文を読むのはご褒美のようなものなので、問題文でさえ長いと嬉しいのだ。
今から解答をひねり出さないといけない、というプレッシャーがあっても、
今からこの文章が読める!
という嬉しさの方が、先だった。わくわくしていた。
読みにくい文の時は、小さい頃からやっていた脳みそをこねくり回すような感じで読めば、著者の言いたいことは大体わかったのだ。
大学に入っても、社会に出ても、投げ売りで買った一冊50円とかの安い文庫本がいつもポケットに入っていた。
それから随分あとになって結婚することになった。その相手は全く活字を読まない人だった。
続く